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虎ノ門の裏のほうを歩いていたら、不思議な光景を。

検索したところ、赤い実はどうやらブラックベリーらしい。たくさん実をつけていた。

どういう人が書いたのか、ベリーを意識したブツブツがある落書きがおもしろい。鈴なりのベリーと一体化している。

玄関側を見ると、もう人の住んでいない空き家のようで、かなり荒れていた。落書きのある壁の様子と、荒んだ玄関の対比が不思議だった。生きてるものと死んでるものが表裏一体になっているような。

 

きょうも歩いたことのない道をたくさんテクテク歩いた。午前中の暑さのわりに午後は少し涼しくなり、梅雨の晴れ間の爽やかな空気のなか、街路樹のある通りや公園のなかを歩くには最適なくらいの陽気だった。

日比谷公会堂RIDE ON TIMEが流れてきたのは笑っちゃったけど。でも曲のはじまりを聴いて、つい ストップザシーズンインザサーン のTUBEと間違えた自分にも笑えた。

あまりに唐突な、あまりに知り過ぎた曲の不意打ちにやられちゃった。

 

リジンショウ。あまり今追求したくもないことばだ。

でも、23才の時になったことを覚えている。友達と出来たばかりのディズニーランドにはじめて行き、スペースマウンテンに乗った夜に頭が星空のなかでぐるぐる回っちゃったような夢を見てからはじまったように覚えている。六本木に努めていた友達に会いに行く日比谷線の中で、ドアのガラスからホームを眺めながら、感覚が変だと思ったことを今でもよく覚えている。

でも考えてみれば、その後にあった大山大谷のとき、わたしは盛んにガラス越しや網越しの景色の写真を撮っていて、そのシリーズにblackade(閉鎖、閉塞)というタイトルをつけ、必死で自己表現をしていた。木村伊兵衛賞もとったカメラマン兼評論家みたいな男に見せたら、「何がおもしいか全然わからない!意味が分からない!」と完全否定された。今でもその男のことは物の分からないやつだなと思う。

写真も撮れないほど谷になっていたとき、自分は世間から遮断されてしまっている。もう普通の社会には戻れない、街ヘ行って買物をしたり食事を楽しんだり、そういうことはもう2度とない、わたしはプラスチックの箱の中に入っていて、そういう普通の世界はその箱の外側にしか存在しないと思い込んでいた。そこから抜け出すのにどれだけかかったんだろうか。

その経験から「プラスチックボックス」という言葉は、わたしのなかでひとつのキーワードとなった。人生はプラスチックボックス、と時々このことばが頭を過る。

人生はプラスチックボックス。

そしてこのことばを口にすると、達郎のPAPER DOLLという曲を思い出す。自分の好きな人を1辺30cmくらいのプラスチックのボックスに入れ、わたしが見ていると気づいていないその人を、ずっと眺めていたいと思ってしまうのだ。

これまでそう思うことは、単にわたしの願望だと思っていたが、今考えて分かった。単に自分の自信のなさを表現しているんだ。リアルな相手と接することに自信がないから、自らをプラスチックの向こうにおき、ただ物欲しそうに眺めてきたんだ。なんでこれまでこのことに気づかなかったんだろう。

わたしは好きな人をボックスのなかに閉じ込めているつもりになっていたが、実際閉じ込められているのは自分のほうだ。自分で自分を閉じ込めて、相手に近寄り過ぎないようにしていたんだ。嫌われたくないから。嫌われる自信だけがたっぷりあったから。

遮蔽物がないと相手と向き合えない。ようは怖いんだ。勇気がないともいえる。

人と話すとき、できるだけあだ名などで呼ばず、敬語をつかって相手との距離を保とうとする、これも人との間に遮蔽物を置いていることとおなじだろう。相手に踏み込まない、踏み込まれたくない、そう思うときによく敬語をつかう。

考えたことなかったけど、自信のない自分は、自分が思っている以上に自分の思考に表れているんだな。人のほうがそれはよく見えるんだろうか?

誰かプラスチックボックスという歌を書いてくれないかな。どんな曲になるだろうか。

 

人生はプラスチックボックス

あなたに中々近づけない

透明な箱から眺めてるだけ

いつかこっちの世界に来てくれないか

遮る壁は厚く

あなたはわたしがいることすら知らない

 

人生はプラスチックボックス

Give me a sence of reality

 

わたしが自叙伝を書くとしたら、ちょっとピンぼけ をパロって、ちょっときちがい がいいんじゃないかと最近思っていた。ちょっと前までは インクのしみ とも考えていた。

でもプラスチックボックスもいいかな。マイルドで意味がわかんなくて。あまり直接的じゃないほうがいい。

ライフ イズ ア プラスチック ボックス