読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

小さな野菜とだいどこのシンク

昔、母親がよく小さくなった野菜を大きな包丁の先で、トントン刻んでいたのを思い出す。

生姜だったか、人参だったか、大根か。

鉛筆じゃないのに、何そんなに小さくなるまで切ってんのか!って思ってたけど、自分が同じようなとしになると、やはり同じようなことをするもんだ。

ひとつの野菜をあれこれに使う。人参だったら、煮物や、キャベツの千切りに少し入れたり、炊き込みごはんにしたり。同じ人参を冷蔵庫から何度も出し入れして、小さくなってなくなるまでちょっとずつ使う。途中で腐らなければだが。

 

夕食を食べて、それをその日の最後でもいいから、洗って寝られるとホッとする。翌朝起きてだいどこのシンクに茶碗や皿が散乱してるのは、朝からとても重たい気分になるし。

最近なんて、だいどこに運ぶことも出来ず、食べたまんまの状態で寝てしまったことが何度かあった。気分が悪いのもあるが、ゴキの温床だ。

昔母親が元気で食事を作っている頃は、もう全部できて食べるだけというのに、だいどこで洗いものを続けていることがよくあった。早くしてよ、食べちゃうよ!というと、片づけてから食べてるから、先に食べてなんていってた。

それも今になると分かる。食べ終わってから、全部洗うのは時間かかるし大変なんだ。

だから作るときに汚れたものだけでも、先に洗って片づけてしまいたい、そういうことだったんだろう。

よく今日のおかず美味しい?と聞くと、真顔で美味しくないというけど、ほんとにそんなに美味しくないのかな。

 

わたしが作るものの味が母親の味と似てるとは思えないけど、少しずつ似るためのテクは分かって来ているような気がする。