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周辺報告

久しぶりに友達に会ったら、なんかとんでもない方向へ行ってたりする家もあって、わたしは基本的に今元気じゃないから行きたくなくて、当日ドタキャンしようかと思ったんだけど、着て行くものが決まったら、前向きな気持ちになったから行って、初めはブーたれた顔でいて、みんなが色々いうけど、わたしはこのまま何も言わずに帰って、そのまま悶々とし続けようと思っていたが、みんながかなり白熱してきて、そうしたらわたしもぶちまけとかないと損だ!みないな気持ちになって、誰かの話を遮り、しゃべらせろ!といって泡吹きながらしゃべったら、みんなはわたしよりかなり上手なので、それはこうすればいいんじゃない、といわれてほぼ終わってしまった。

おかげさまでスッキリはしてよかった。

それから深夜まで代官山蔦屋という、こんな時間にこんだけの人間がなんでここにいるんだみたいな店で、ギャーギャーしゃべって、周囲の人たちはさぞや迷惑だったと思うけど、あと20年も経てばみんなおんなじよ、ってことで許して欲しい。

 

今、ジレンマという番組を見ている、というかつけてる。

いつも何いってんだけわかんない、大体言葉がわかんない言葉だらけだから。

 

その前は、自閉症の人と、その人たちが作り出す作品?のことをやっていた。

これまで思わなかったんだけど、自閉症発達障害?、アスペルガーとか、詳しくないけど脳に障害を持って生まれてきた人たちというのは、成長の仕方が違うというか、

成長できないということことがあるんだろう。

こどもの描く絵はどれも天才だ。大抵。でも、成長発達していくうちに、それに既成概念と、常識とか、そんなようなものが積み重なり、天才性は失われてしまう。

ただ、成長が不可能な人は、いくつになってもおなじ制作活動、本人はそう思っていないかも知れないが、何かを生みだしたり、何かをし続けたり、そんなことをつづけ、そして天才でありつづけることができる。それが、障害をもつ人たちのアートなんじゃないかと思う。

例えば、すごく細い線を大きな紙の端から、間隔も変えずに描き続け、紙を埋め尽くせる人がいたとする。それを故意にではなく、小学生が面白いからするように続けられるか、何かの思想や技術の鍛錬や、天才性をもって続けられるか。両方をおなじ括りのアートと呼ぶのか。障害者アートというのは、芸術のなかでも独立したものなのか。わたしはそう思うけど。

だって、そういう人の作品は、ゴッホの作品のような存在にはなれないでしょ。

 

そういう意味で考えると、わたしはこども天才的な部分もなく、常識まみれで、希有な才能も発想もない。でもやりたいことはひとつではなく、あれもこれもやりたくて、なのに実際はなにもしてない。

してない、というところで、これじゃダメじゃん!なのだが、なんか最近はそれでもいい気がしている。器用貧乏にもいたらないけど、今さら何か1つに目標を絞ったって、意味あんのか?!

 

そんなことより、寝ないと